いいえ都々逸




現在三週に渡って実写版るろうに剣心が放映されています。
これまで実写版は見たことがなくこれを機にと思い見ているわけですがこれほどまでアクションシーンに引き込まれるとは思いませんでした。どうやって撮影しているのでしょう。気になります。




時代は明治
日本は列強からの植民地化を避けるため近代化を推進し、世界史的に見れば産業革命の時代にあたります。



文明開化とはとはよく言いますがこの時代は人力車が走り、蒸気船が運航し、郵便制度が開始され大変利便な生活が送られ、多様な欲求に満足を与える機会を増大させました。


利便の面で明治時代の人はもう江戸時代には戻れないと主張していた人もいたかもしれません。



当時の文明開化は革新的で大変利便な社会になったと思われますがあれから一世紀経った今、時代はさらなる変化を遂げました。




TVのリモコンを指先で操作するだけで多くの番組が見られ、携帯電話でいつでも友人と話ができ、ネットで何でも調べることができ、電子レンジで「チン」すれば料理が出来上がります。


文明開化同様、多くの欲求が即時的に満たされるようになりました。




しかし、ここで思うのがあまりにも利便な社会になり過ぎて人々の欲求耐性が低下しているのではないかということ。


つまり我慢や忍耐の能力が極度に低下しているのではないかということです。




文明の高度化は私たちの欲求に満足を与えてくれますがそれと同時に人間から欲求耐性を剥奪しているような気がしてなりません。






ししお誠
獅子お誠







さすがに予測変換には出てきませんね







採点者は自分



現在とある通信教育を受講しており、先日提出したレポートが返ってきました。
レポートの内容に自信はあったのですが少しばかり論点が逸れた箇所があったようでその分点数が引かれていましたがなんとか及第点には達しておりホッとしている次第です。




こういった論述試験の採点に関して思うのがどういう基準で採点をしているのかということ。


選択式の試験ならば正解、不正解がわかりやすく採点も容易ですが論述式では明らかな間違いを除きその境目が不明瞭であり、もし採点者のさじ加減によって点数が大きく左右されるのだとすると納得がいきません。


論述式の試験にも選択式のように採点の基準がしっかりと決められていることを願いたいものです。



このように試験などの点数によって極端な話人生が左右されてしまうのはなんだか悲しく思いますがこれが近代社会の常なので業には従うまでという話です。




さて、この自分の人生を左右する点数ですが恋愛にも点数をつけるとその本質が見えてきます。



某難関私立大学のW大学の教授が言っていたのが
自分の魅力を点数化すると何点になるでしょうかという質問。



難しいですが考えてみることとします。
容姿は…性格は…年収は…という風にです。




自分の魅力度を点数化して何がわかるのかというと、
教授によると自分の魅力度以上の異性と付き合うことは不可能だそうです。

例えば自分の魅力度が50点だとして魅力度80点の異性と付き合うことはできません。


自分が50点ならば付き合う異性も同じくらいの点数の人に、結果的にそうなるという事だそうです。



これを恋愛均衡説と言うのですが恋愛も経済と同じように市場がありこれを恋愛市場と呼ぶのですが私達は知らず知らずの内にその恋愛市場に参加しています。


恋愛関係とは、いずれは消滅してしまう恋愛感情を前提として、自分の資産価値を元手にできるだけ高く自分を売り買いしたい者同士が物々交換することである。(引用)

 

そうであるからこそ、効率的な恋愛市場ではだいたい魅力が同じくらいの者同士がカップルになるということなのでしょう。





自分に点数をつけるとすると何点でしょうか。




より魅力的な異性と付き合うためにはまず自分の魅力を高めていくことが一番の近道だと思います。







つまり待っていても白馬の王子はやってきません。ということです。

フカヒレはアオザメ




"鮫が人を好んで食べることはない。人間の肉の味はどちらかといえば鮫の嗜好にはあわないのだ"


村上春樹東京奇譚集』 p.45  2005





鮫にどのような印象を持つでしょうか。
鮫の容姿や某有名映画のイメージから凶暴で危険な生き物だと考える人が多いと思います。



確かに毎年世界中で遊泳中に鮫に襲われ被害に遭ったというニュースを聞きますが鮫の多くはおとなしく臆病であり、人に危害を加える生き物ではありません。



現在約500種類の鮫が確認されていますがその中でも人を襲う危険性があるのは6種類のみだと言われています。



・イタチザメ
・アオザメ
・ヨゴレ




特に上から3種類の鮫は非常に凶暴であり、世界中で被害報告が確認されています。



なんだやっぱり鮫は危険なんじゃないかと思われるかもしれませんが逆に言うとこの6種以外の鮫は凶暴でなく、自分の意思で人に危害を加えることはないということです。




上記のイタチザメは日本でも確認されており、沖縄では漁師が釣った魚や仕掛けた罠がイタチザメに食い荒らされることから、イタチザメの駆除を進めています。
その駆除されたイタチザメの歯は沖縄の飲食店の店内に飾られていることがあり、イタチザメの一度掴んだら離さないアゴの強さにあやかり、「お客さんが離れないように」という意味合いが込められています。




学生時代に行った沖縄の個人経営の飲食店でもイタチザメの歯が飾られており当時実物を見ることができて喜んでいた記憶があります。





大変料理上手な店主で客が離れることはないだろうなと素人ながらに思いました。



映画でも見よう



以前、「休日は何をして過ごすのか」という話題になった時一人の友人が自分は休日は自宅に引きこもり部屋から出ることはないという回答をしました。



友人にとって自宅で過ごすという選択が最もリフレッシュすることができ、そして「平和」な過ごし方なんだそう。




私は休日はどちらかというと外出することが多いため
自宅にいることが「平和」だという意見を聞き、人によっていろいろな過ごし方があるのだなと思ったばかりです。




平和 へい-わ

[名・形動]
1 戦争や紛争がなく、世の中がおだやかな状態にあること。また、そのさま。「世界の―を守る」
2 心配やもめごとがなく、おだやかなこと。また、そのさま。「―な暮らし」



ある俳優の考える平和はお金に関する意見でした。

お金の価値が無くなれば戦争は起きないのではないかと。
彼は仕事とお金でしばし苦労した経験があったようです。



ある私が尊敬する女優兼グラビア女優兼エッセイスト兼ラジオパーソナリティーは服を着ないのはどうかという考え。


ヌーディストビーチの平和性を世界にも応用できるのではないかと思っているそうです。




何が社会が最も平和に近づくのかと考えた時、もしかすると全人類が自宅から外へ一歩も出ないことが平和なのではないだろうかという考えが一瞬でも頭をよぎったのは冒頭の友人の意見が割と自分の脳裏にジリジリと焼きついていたからなのだと思います。








次の休みは自宅で過ごします


烏龍茶を烏龍ハイだと言い続ける

会社の同期と飲みに行くことがたまにあります。普段はそこまで付き合いが深いというわけではないのですが時折ある合同の新入社員研修の後などはこのまま帰るのもなんですし飲みに行きましょうかという流れに自然となります。そういうものです。


この研修後の集まりを楽しみにしている人もいれば「まあ行っておいて損はないか」とその先の人間関係を考えて参加する人もいることと思います。


中には参加せずに帰宅という人もおり、「なぜ参加しないのか」と思う人もいるのでしょうがもちろん強制ではありませんのでそれはその人の自由ということです。



人間関係とは難しいものですね。




イギリスの社会学者ギデンズは近代化が進むにつれて地縁や血縁など伝統によって決定されるような対人関係が望まれなくなり、かわってそうした要素にとらわれずに人々の自由意志によって選択される関係性が重視されるようになっていくと述べました。


つまり友人関係も恋愛関係も付き合いたい人と自由に付き合う社会になるということです。

冒頭での例で言うと集まりに参加するもしないも自由ということですね。



何を当たり前のことを言っているのかと思われるかもしれませんがそれほど近代以前では伝統によって人間関係が大きく左右されていたのでしょう。



付き合いたい人と自由に付き合う、これを「純粋な関係性」と呼ぶのですが、この純粋な関係性はその相手と居て「自分が満足できるか」というところが鍵になります。

つまり一旦成立した関係でもその関係性が自分にとって満足いくものでなくなった場合は関係を解消することがあるということです。



一見するとこれは「自分勝手」のようですが実はそこには自分の精神的満足を追求するだけでなく、他人の精神的満足感を尊重しているという面も含まれています。
ここがまさに人間関係の面白いところなわけです。



まとめると

伝統的関係性からの脱却
関係がそれ自体がもたらす満足感によって決定
満足感がなくなれば関係性は消失、変容
当事者自身が「満足しているか」どうかの検証が必要
お互いの精神的満足感の尊重へと繋がる






私は集まりには進んで参加するタイプです。







まあお酒弱いんですけどね

「秋服…?」今も疎い

マフラーを巻いた人をチラホラと見かけるようになってきました。
マフラーは冬のファッションというイメージが強く、それを見かけたときはマフラーを使用するには少々早いのではないかと思いましたが、確かに近頃の朝と夜の冷え込みを考慮するとマフラーをしてしまうのもうなずけます。


「マフラーは冬服」というイメージから「秋服」の要素もあるということを確認した瞬間でした。


秋服と聞くとどんな服装のイメージが浮かぶでしょうか。


カーキやブラウンを取り入れた薄手のカーディガン、セーター、少し厚めのパーカー




ファッションには疎い私ですが
昔はさらに疎く、「寒くない?」と言われながら夏服を着続け、夏服でいられないほど寒くなると「暑くない?」と言われながら冬服を着続けた私は秋服と呼ばれるものは持ち合わせていませんでした。それほどファッションに興味がありませんでした。




それも今は昔です。




冗談です。

舞台は洋館、銃声が二発

ミステリー記念日

1849年のこの日、ミステリー小説の先駆者、エドガー・アラン・ポーが死去した。40歳。1845年に発表された「モルグ街の殺人」が世界初の推理小説と言われている。
(引用)




今日はミステリーの日ということで某大物作家の某ミステリー小説を読んでいたわけですが、煽り文で大々的に「衝撃の叙述トリック」と書かれており、騙されまいと注意深く読んでいたにもかかわらず、最終的にそのトリックに騙されてしまいました。不覚です。



通常トリックは作中の犯人が主人公や探偵、警察の捜査を撹乱するために用いるものですが、これに対し叙述トリックは我々読者に対し用いるもので物語とは無関係なことが多いものです。




作者のアイディアにまんまとはまってしまった時には、頭に作者の得意げな表情が浮かび、してやられた悔しさが込み上げ、
次回この作者のミステリーを読むときは先にトリックを解いてやろうと考えています。





実はたまたまミステリー小説を読んだ日がミステリーの日だっただけなのですが、普段ミステリー小説を読まない私がこの偶然この手の小説を読んだという事がまさにミステリーだったと思った次第です。